詳細
創建 | 寛永6年(1629年) |
開山 | 超然禅師 |
開基 | 福州地方出身の長崎在住唐人ら |
本尊 |
縁起
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺[1]と称せられた。
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三門(楼門)|国指定重要文化財
現在、崇福寺の象徴ともなっているこの門は、最も中国趣味の濃厚なデザインである。しかし、中国で材料を加工し、中国技術者が建設した建物が多い崇福寺の中にあって、この建物は、棟梁の大串吾郎平以下、すべて日本人技術者によって建設されている。以前にあった山門は火災や風災で倒壊し、嘉永2年(1849)4月に再建された際に、初めて龍宮門と呼ばれる様式で造られた。また、寺院の外門で中央と左右に門戸があることから、三門と呼ばれる。基部は石の練積み漆喰塗りで造られ、これに屋根を架設し、その上に入母屋屋根の上層をのせ、勾欄をめぐらした楼門形式で、左右脇門は漆喰塗基部に瓦屋根をのせている。
境内掲示より
第一峰門|国宝
この門は、材料を中国寧波で加工し、唐船数隻で長崎へ運び、元禄8年(1695)に建設された。軒下の構造組物は、四手先三葉栱と呼ばれる複雑巧緻な詰組であり、国内では類例がなく、中国華南地方でも珍しい。寺内の他の建物にもみられる。垂木を平に使った二軒の扇垂木・鼻隠板・挿肘木・柱上部の籐巻等の中国の建築様式が用いられている。軒下軒裏には極彩色の吉祥模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗にしてある。当初はここが山門であったが、延宝元年(1673)、この門の下段西側に、新たに三門が建立されたことから、ここは二の門となった。別名は唐門・海天門・中門などと呼ばれる。第一峰門と海天の名称は扁額の文字による。
境内掲示より
護法堂|国指定重要文化財
原爆で焼失した福済寺や、聖福寺、宇治の黄檗山萬福寺には天王殿がある。天王殿は、弥勒(布袋)と韋駄天が背中合わせに置かれ、左右に通り抜けられる門の形であり、大雄寶殿の前に配置されている。これは黄檗寺院の特徴の一つである。崇福寺の護法堂は韋駄天を祀り、柱割りも天王殿の形式に類似するが、背面を壁にして普通の仏殿となっているのは、地形の関係上、門にできなかったからであろう。大梁下面の墨書により、享保16年(1731)の建立であることが判明している。柱上部の籐巻・挿肘木・扇垂木・半扉・黄檗天井などに黄檗様式が見られある。柱の礎石の彫刻模様も中国人技術者の作と思われるが、妻飾りは和様であり、日本人技術者が参加していたことがわかる。
境内掲示より
大雄寶殿|国宝
崇福寺は、長崎在住の福州出身者が中心となり、福州から僧超然を招き、寛永6年(1629)に創立した寺である。このうち、釈迦を本尊とする大雄寶殿は、有力な財物施与者であった何高材の寄附により、中国で材木を加工し、唐船で運び、正保3年(1646)に建設された。当初は単層屋根であったが、35〜6年後に、外観を重層屋根(2階建てのような外観)に改造し、現在の姿となった。下層部分は、軒回りの逆擬宝珠束の持送りや、前廊部分が俗に黄檗天井と呼ばれるアーチ型の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の細部様式は和様を基調としているが、違和感なく調和している。この上層部の意匠は、原爆で焼失した福済寺の大雄寶殿に類似している。
境内掲示より
媽祖門|国指定重要文化財
この門は文政10年(1827)に再建されたものである。媽祖堂の前にあり、大雄寶殿と方丈(庫裡)の玄関をつなぐ渡り廊下を兼ねた巧みな配置になっている。形式は、八脚門3間3戸で、扉の前面は黄檗天井、背面は山形天井となっている。木割(モジュール)が大きく、雄大な外観である。細部に僅かの塗料を用いるほかすべて素木のままとし、建築様式は和様を基本としている。媽祖は、ぼさ(菩薩)ともいい、ぼさ門とも呼ばれる。長崎市内の黄檗寺院である興福寺や聖福寺の媽祖堂には門がなく、また、福済寺は観音堂が媽祖堂にあたり、これには門があったというが、原爆により焼失した。このほか、京都宇治の黄檗山萬福寺には媽祖堂自体がない。崇福寺の媽祖門は、他に類例が見られない貴重な遺構となっている。
境内掲示より
写真
アクセス
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