詳細
創建 | 伝・康応元年(1389年) |
開山 | 峻翁令山禅師 |
開基 | 大江備中守師親 |
本尊 | 地蔵顔王菩薩 |
霊場 | 多摩八十八箇所番外札所 |
縁起
廣園寺は、1390年、大江備中守師親が、峻翁令山和尚を請じて開創したと伝えられますが、火災等により文献が消失しているため明らかではありません。幾度かの火災や復興を経ましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めに際し兵火にかかり諸堂が消失しました。
江戸時代初期には幕府の庇護のもと、京都南禅寺派の禅宗寺院として発展し、七堂伽藍が整備されます。今日多くの塔頭等は失われているものの、廣園寺の伽藍配置は踏襲されています。元禄10年(1617)及び寛政4年(1792)の火災で荒廃しましたが、文化から天保年間にかけて現在の堂宇のほとんどが再建されました。
兵陵を背に南面し、総門・山門・仏殿が南北の一直線上にあり、中間東方に鐘楼があります。背後には石垣をもって一段高く本堂・庫裡・開山堂が東西に接続しています。江戸時代後期の建築物(総門・山門・仏殿・鐘楼が都有形文化財)を含む禅宗寺院様式の伽藍配置がよく残っています。
境内掲示より
宝林寺大拙祖能禅師へ参禅
この廣園寺は、峻翁令山禅師によって開山されました。峻翁令山禅師は、応永3年(1370)、峻翁令山禅師が27歳の、正月17日に大拙祖能禅師に参禅したいと宝林寺を訪ねたと記録が残っています。
峻翁令山禅師が27歳の正月のこと。
「上州宝林寺の大拙祖能禅師に参禅したいのです。ついては、しばらくのお暇をいただきたい」と、抜隊禅師にお許しを願いました。
抜隊禅師は「では、『香嚴樹に上る』の話を、どうにもならないから教えておくれ、とたのむがよかろう」と、宿題をくれました。『香嚴樹に上る』は、禅問答集「無門関」の第5番目に登場する難しい問題です。
そこで、峻翁令山禅師は、よろこび勇み上州へいき、大拙祖能禅師に教えて下さい、とたのみました。
大拙祖能禅師は、峻翁令山禅師にいいました。「あなたは、これまでに、じゅうぶんに修行してきました。むかしの人は、『百尺の竿頭に一歩を進めよ』というが、いまや、これをどう自分自身のものにして実行するか、さらに修行をつむことが大切なのです。」
そして、峻翁令山禅師から抜隊禅師の指導ぶりを、それとなく聞いて、「抜隊禅師は立派な指導者です。あなたの修行を成功させるのはわたくしではない。ここにいる必要はありません。抜隊禅師のところへ帰りなさい。」と、いってきかせました。
そこで峻翁令山禅師は、すぐに抜隊禅師の庵に帰り、修行をつづけました。
峻翁令山和尚ーやまた本坊廣園寺の開山さま
写真
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