詳細
創建 | 寛文元年(1661年) |
開山 | 隠元隆琦 |
開基 | 徳川家綱 |
本尊 | 釈迦如来 |
縁起
開山・隠元隆琦は明の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時明においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。
隠元が招かれて来日するのは明暦順治11年、日本の承応3年(1654年)、63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。隠元は長崎・興福寺の僧逸然性融らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭(やらんしょうけい)という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに渡日を決意する。
承応3年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津国富田(現・大阪府高槻市)の普門寺に住した。隠元は明に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、明の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を江戸幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、第4代将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治にあった近衛家の所領で、後水尾天皇生母中和門院の大和田御殿があった地を与えられ、隠元の為に新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。
寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。
黄檗宗大本山である萬福寺の建築は明時代末期頃の様式で造られ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。また、多くの仏像が来日して長崎にいた清の仏師・范道生の作であり、大陸風である。寺内で使われる言葉、儀式の作法なども明朝風に行われる為、現在でも中国色が色濃く残っている[2]。本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色である。萬福寺は煎茶道の祖・売茶翁ゆかりの寺としても知られる。隠元と弟子の木庵性瑫、即非如一はいずれも書道の達人で、これら3名を「黄檗の三筆」と称する。このように、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされた。隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹、スイカ、レンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれている。
Wikipediaより
年間行事
歴代住持
代 | 道号法諱 | 晋山 | 唐・和 |
---|---|---|---|
開山 | 隠元隆琦 | 寛文元年(1661) | 唐僧 |
2代 | 木庵性瑫 | 寛文4年(1664) | 唐僧 |
3代 | 慧林性機 | 延宝8年(1680) | 唐僧 |
4代 | 独湛性瑩 | 天和元年(1691) | 唐僧 |
5代 | 高泉性潡 | 元禄5年(1692) | 唐僧 |
6代 | 千保性侒 | 元禄9年(1696) | 唐僧 |
7代 | 悦山道宗 | 宝永2年(1705) | 唐僧 |
8代 | 悦峰道章 | 宝永4年(1707) | 唐僧 |
9代 | 霊源海脈 | 享保元年(1716) | 唐僧 |
10代 | 旭如蓮昉 | 享保2年(1717) | 唐僧 |
11代 | 独文方炳 | 享保4年(1719) | 唐僧 |
12代 | 杲堂元昶 | 享保8年(1723) | 唐僧 |
13代 | 竺庵浄印 | 享保20年(1735) | 唐僧 |
14代 | 龍統元棟 | 元文5年(1740) | 和僧 |
15代 | 大鵬正鯤 | 延亭2年(1745) | 唐僧 |
16代 | 百痴元拙 | 寛延元年(1748) | 和僧 |
17代 | 祖眼元明 | 宝暦4年(1754) | 和僧 |
18代 | 大鵬正鯤 | 宝暦8年(1758) | 唐僧 |
19代 | 仙巌元嵩 | 晋山前示寂 | 和僧 |
20代 | 伯玽照浩 | 明和2年(1765) | 唐僧 |
21代 | 大成照漢 | 安永4年(1775) | 唐僧 |
22代 | 格宗浄超 | 天明6年(1786) | 和僧 |
23代 | 蒲庵浄英 | 寛政5年(1793) | 和僧 |
24代 | 石窓衍劫 | 寛政10年(1798) | 和僧 |
25代 | 華頂如秀 | 寛政12年(1800) | 和僧 |
26代 | 妙庵如最 | 文化6年(1809) | 和僧 |
27代 | 金猊浄踞 | 文政6年(1823) | 和僧 |
28代 | 梅岳眞白 | 文政10年(1827) | 和僧 |
29代 | 璞巌衍曜 | 天保2年(1831) | 和僧 |
30代 | 独旨眞明 | 天保8年(1837) | 和僧 |
31代 | 若存通用 | 天保12年(1841) | 和僧 |
32代 | 楚州如宝 | 弘化3年(1846) | 和僧 |
33代 | 良忠如隆 | 嘉永4年(1851) | 和僧 |
34代 | 瑞雲眞芳 | 安政6年(1859) | 和僧 |
35代 | 独唱眞機 | 明治3年(1870) | 和僧 |
36代 | 金獅廣威 | 明治5年(1872) | 和僧 |
37代 | 萬丈眞光 | 明治10年(1878) | 和僧 |
38代 | 道永通昌 | 明治13年(1880) | 和僧 |
39代 | 霖龍如澤 | 明治16年(1883) | 和僧 |
40代 | 観輪弘乗 | 明治18年(1885) | 和僧 |
41代 | 虎林弘嘯 | 明治33年(1900) | 和僧 |
42代 | 蓬山眞仙 | 明治37年(1904) | 和僧 |
準世代 | 又梅享運 | ー | 和僧 |
43代 | 紫石仁珠 | 明治39年(1906) | 和僧 |
44代 | 伯樹弘森 | 明治44年(1911) | 和僧 |
45代 | 英巌通璋 | 大正5年(1916) | 和僧 |
46代 | 大雄弘法 | 大正7年(1918) | 和僧 |
47代 | 直翁廣質 | 大正14年(1925) | 和僧 |
48代 | 義道弘貫 | 昭和7年(1932) | 和僧 |
49代 | 玉田眞璞 | 昭和14年(1939) | 和僧 |
50代 | 徳寧仁悌 | 昭和21年(1946) | 和僧 |
51代 | 不説仁説 | 昭和23年(1948) | 和僧 |
52代 | 道元仁明 | 昭和31年(1956) | 和僧 |
53代 | 冝豊智昌 | 昭和38年(1963) | 和僧 |
54代 | 弘道弘久 | 昭和39年(1964) | 和僧 |
55代 | 慈光通照 | 昭和42年(1967) | 和僧 |
56代 | 禅梁智棟 | 昭和48年(1973) | 和僧 |
57代 | 玄妙廣輝 | 昭和55年(1980) | 和僧 |
58代 | 行朗仁傅 | 昭和62年(1987) | 和僧 |
59代 | 文照明質 | 平成6年(1994) | 和僧 |
60代 | 泰山智深 | 平成13年(2001) | 和僧 |
61代 | 亘令明宗 | 平成20年(2008) | 和僧 |
62代 | 博道智明 | 平成27年(2015) | 和僧 |
写真
アクセス
〒611-0011
京都府宇治市五ケ庄三番割34